【扇谷上杉家の野望】その6 新星輝き青竹を狩る

扇谷上杉家は真岡城攻略によって兵力を減らした佐竹家に反撃をしかけました。それに対し、佐竹家は当主・佐竹義篤が太田城から出陣して迎え撃ちます。

朝興はその義篤と、包囲中の石岡城下で対峙。会戦を展開してこれを撃破しました。

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※義篤は1部隊で朝興に向かってきた。これが若さか。しょせん、老獪な朝興と比べて義篤は青二才。茶筅にちょうど良き青竹なのである。

1536年12月。真岡城主・江戸忠通は石岡における佐竹義篤の壊滅を知り、上杉家に降伏。次いで石岡城も落城します。落城をもって攻略戦は中断しますが、この戦いによって、佐竹家は常陸における影響力を縮小しました。

 

1537年2月、河越城に太田当主・太田資正が元服します。彼の元服により、扇谷上杉家は北条と渡り合える名将を得たのです。

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※先の戦いでお陀仏してしまった太田資顕の弟、太田資正(おおたすけまさ)である。顔は何となく犬みたいだが、やはり犬を好むという噂がある。その能力は82/70/84/52と相当優秀。扇谷上杉家の希望の星である。

 

そのころ、関東の各地でにわかに小競り合いが勃発しました。北条家は八王子城を超えて北上。山内上杉領・平井城へと侵攻を開始します。その隙を突いて、武田家が八王子城を攻撃。上総でも里見・北条の争いが起きるなど、情勢は混沌としてきました。

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※しかし、北条の北上は武田の攻撃に阻まれて失敗。山内上杉家が手を回したとすれば、中々の策士が家中に居るのだろう。

その最中、上総の勢力、真里谷家が北条家の手によって滅亡します。当家は真里谷信隆、信応を迎え入れて保護。真里谷旧領・椎津城を奪還する大義名分を得ます。

 

さて、その関東情勢も冷めやらぬ9月、各家の目は当家に向いていません。朝興は米の収穫を待って、第二次の佐竹攻略に乗りだしました。この攻略戦では一気に本城・太田城まで攻め、佐竹の滅亡を狙います。

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※太田城は耐久7500の堅城。当家の動員兵力はせいぜい8000程度で攻略には心許ない。仕方なく、古河足利家と連合して攻略にあたり、会戦も多用した。

 

しかし、他家から当家への目がそれているという目論見は外れます。北条氏綱はその隙を突き、7500の大軍を動員。扇谷上杉領・岩付城へと兵を進めます。しかし、朝興はこれに冷静に対処。朝廷に和解の仲介を依頼して難を逃れました。

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※金も渡さず停戦とな!? まったく、またでおじゃるか。困ったものでおじゃるな。和解の仲介はしてやるが扇谷上杉家への信用は0にするでおじゃる。また献金よろしく。

北条と停戦し背後の憂いを断った上杉家は、佐竹攻めに専念。元服したばかりの太田資正が太田城を攻略し、佐竹家は滅亡しました。

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※「太田城、攻め落としたぞ! ……この程度とはな」 資正はこの戦で早速その頭角をあらわす。正直、会戦を多用してしまったのでつまらなくなっちゃった感はあった。

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※「1537年12月、佐竹家は扇谷上杉家によって滅ぼされました」こうなってしまえば、佐竹義篤もなすすべもない。そのハイエナっぷりには苦しめられてきたが、最後は捕らえられて当家に降った。呵呵……城ごと炎上、爆竹とならなくてよかったのう。

 


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