【扇谷上杉家の野望】その5 宇都宮攻略

上杉朝興は武蔵の兵を引き連れて北上。宇都宮家の攻略に着手し、宇都宮城を落城しました。その後、間髪をいれず宇都宮領・壬生城の攻略にとりかかります。

しかし、その途上で出陣中の太田資顕が病に倒れ、そのままお陀仏してしまいました。

uesugi1_5_1
※悲しき忠臣(?)の死。

一方、当家に合わせて出陣した古河足利家は宇都宮領・真岡城の攻略に失敗し、撤退。公方の名声を汚す結果となりました。しかし、山内上杉家がその攻略を引き継ぎます。真岡城は相次ぐ攻撃に耐えかねて落城。山内上杉家の所領となりました。

そして1536年4月。当家・菅谷勝貞よって壬生城は攻略され、下野宇都宮家は滅亡しました。

uesugi1_5_4
※ついでに同時期に、伊予の宇都宮家が一条家の手によって滅亡した。宇都宮家、受難の時である。

扇谷上杉家による北上作戦は成功しました。宇都宮攻めにあたって、常に北条の動きが心配でしたが、こちらに攻めてはきませんでした。あまりに動きがなく、不気味ですらあります。

その北条家の西に接した勢力、今川家ではお家騒動(花倉の乱)がありました。勢力が縮小したためか、以前は’敵対’だった当家に対する態度が’関心’となりました。現在、今川家は北条家と同盟関係にありますが、敵に回したくない相手です。ここで外交工作を開始しました。

uesugi1_5_5

 

宇都宮攻略から2ヶ月後、上総に動きがありました。古河足利が小弓足利の攻略を画策。自らの手で分裂した関東公方の統一をはかります。それに呼応してか、北条家が里見領・館山城へと侵攻。勢力拡大をはかります。

uesugi1_5_6_2
※画像右上で小弓足利家が古河足利家によって攻められている。この攻略は成功し、関東公方は統一された。左下では北条家が里見家の館山城を攻撃。このころ、まだ館山城は築城されていないらしいが、気にしちゃいけない。

その動きに注視していると、山内上杉家から早馬が到着します。攻略したばかりの真岡城に佐竹の兵が迫っているので、援軍を出してほしいとの申し出でした。当家はこれを受諾しますが、山内上杉家は防衛のために真岡城から500の兵を出すだけで本拠からは全く動く気配がありません。

uesugi1_5_9
※この憲政は、「まぁ、他家が何とかしてくれるんじゃろ?」 という姿勢を貫く。この顔はもう、別のことを考えている顔である。

しかし、佐竹に勢力を伸ばされるのはシャクです。当家は仕方なく宇都宮城から1700の兵を出陣。米が不足していて、これが出陣できるギリギリの兵力です。しかし、佐竹の兵は3000。戦力差は大きく、当家は頃合いを見て撤退。真岡城の防衛軍は壊滅し、9月に落城しました。

uesugi1_5_10_2
※真岡城はあっという間に落城した。今の山内上杉は本当にだらけている。関東管領は我が扇谷上杉家が継ぐべきだと思うのじゃ。

佐竹の攻略軍はそのまま真岡城に入城します。しかし、将は城に入場しますが、兵は真岡城で解散。各々で所属する城へ帰城します。佐竹家の実兵力は一時的に減少して、およそ半数となりました。

9月は米の収穫の時期です。兵糧を得た朝興は、これを好機と見て佐竹領への侵攻を決定。朝興自ら出陣し、真岡城、石岡城の包囲を開始しました。

uesugi1_5_12
※見づらいが、画面中央上の城が真岡城、その南東にあるのが石岡城である。どちらも扇谷上杉家による包囲が完成している。北関東の安定は近い。

 

広告