1542年11月、三村家が滅亡。旧三村家臣をとらえた三浦貞盛は津山城へと向かいます。
旧三村家臣たちは、あいついで三浦家に投降。その中には何度か戦でまみえた竹内久盛の姿もありました。
※竹内久盛は戦の見物をしている印象しかない。しかし、彼は山伏に鍛錬をうけて開眼、竹内流を創始した人物である。ただのにやけた人ではないのです……。
1544年4月、尼子家が大内家に従属したことで、三浦領では仮初めの平和が訪れました。
このころ三浦家の兵数はおよそ20000。中国地方における大国としての道を歩みはじめたのです。