【大崎文の野望】その6 ある語り部の言

某は、しがない語り部です。本日は某がこの戦乱の現状を語らせていただきます。

大崎家と豊臣家の争いは、10年にも渡るものということです。今でこそ天下を2分していますが、以前はそうとう力の差があったようです。大崎家もごく小さな領地を持っていただけだったので、豊臣秀吉公も大崎家などとるに足らぬと油断していたのでしょう。

oosaki1_0_2
※以前の大崎家

 

 

しかし結果をみれば、大崎家の台頭は豊臣家の崩壊をまねいた。豊臣家は九州征伐をかかげながら、大崎家に散々邪魔をされて、ついには九州の地に足を踏み入れることはありませんでした。

九州では島津義久が幅をきかせ、今では九州全土に勢力を拡大。本州にまで手を広げ、豊臣家と長きにわたって周防で争っていました。

oosaki3_6_2

 

それも大崎家が豊臣家の西進を邪魔だてしたことによります。あの大崎義隆がいなければ、今頃は九州も豊臣家のもの。それどころか、とっくに天下を制していますな。

だいたい、大崎家は平和だった京に上洛して、それから大坂城を落城せしめたのです。そこにどんな正義がありますか。いかに栄枯盛衰といっても、ひどい話じゃないですか。こんなことが許されますかねぇ。

 

大崎家の凶行はそれだけにとどまりません。大坂城を攻め落として調子にのった大崎文は、播磨をこえ、四国・中国地方にまで手をのばしたのです。

勢いだけはある大崎家は、兵力にたよって城を攻略していきました。

oosaki3_6_5
※どこの馬の骨とも知れぬ南条隆信とかいう武将が、活躍をみせているらしい。

彼らは八上城にまで攻め入ったのですが、秀頼様は豊臣家の当主として、果敢にも小数の手勢をひきいて八上城へと救援に向かいました。堂々たる体躯を存分に発揮され、それは見事な働きだったそうです。

oosaki3_6_6
※麗しき豊臣家当主

しかし悔しいかな、大崎文の、数の暴力に阻まれて救援はかなわず、ついに敗走されました。

 

それから秀頼様は、天神山城をお守りしていました。そこを伊達成実が捕らえ、卑劣にも切腹を強要したのです。これが1611年2月ごろのこと。秀頼様は齢19だったっていうんですから、なんとも無粋じゃありませんか。

oosaki3_6_9

oosaki3_6_10
※こんな愚行は許されるものではない

 

しかし豊臣の家中には秀吉公から豊臣姓を賜った木下勝俊様がおりました。その勝俊様がいったん豊臣家を継いで、幸いにして豊臣の家名だけは守られました。これで一安心と誰もが考えたはずです。

oosaki3_6_11
※豊臣家の固有政策「人掃令」も保たれた。

 

 

ところが。

 

その1年後、1612年に勝俊様は伊達政宗に捕らえられて、やはり切腹させられたのです。

oosaki3_6_13

勝俊様は歌に長けた方でしたから辞世の句を作る猶予を求めたのですが、大崎文はそれすら許さなかったという噂です。

oosaki3_6_14
※「まだ辞世の句ができておらぬ……この身を哀れに思うのなら少し猶予をくれぬか」

oosaki3_6_16
※「この報い、いずれ受けることになろう……」

このことから、大崎文という人物は慈悲も哀れも解せぬ、下賤の徒なのだろうという想像がつきます。

 

 

その後のことは。豊臣家は下間頼廉が継いで下間家となったわけです。

oosaki3_6_17

oosaki3_6_19

いやはや。これが現在の状況なのです。そもそも、大崎義隆は我欲のために兵をあげたとか。そんな俗物が世にはびこるなど、道理に合いませんな。勝俊様の言い残したとおり、大崎家はしかるべき報いを受けることになるでしょう。近頃やけに暑いのも、大崎家が愚行をやめぬからでしょうなぁ。

 

広告

【大崎文の野望】その6 ある語り部の言」への4件のフィードバック

  1. ムルアカ

    秀頼さんは後世で評価が分かれそう。
    ◎悲劇の御曹司
    ◎実は勇敢な武将
    ×家を滅ぼしたダメ息子
    ×勝ち目の無い戦で国を疲弊させた
    みたいな感じで。

    勝俊さんは今川氏真ポジかな
    文化人としては一流。武将としては三流以下

    返信
    1. 木坂万倉 投稿作成者

      >ムルアカさん

      コメントありがとうございます!

      面白いですね! 『大崎文の野望』の秀頼さんは、ムルアカさんの評価がすべて当てはまると思います。ただ、実績をつくれないまま、ほぼ天下を握っていたはずの豊臣家が衰退してしまったので、後世ではなかなか良い評価をもらえなそうです。秀頼さんについては☓の方がふつうの見方になってしまうのではないかと思います。

      勝俊さんは、『大崎文の野望』では史実の今川氏真よりもひどい目にあっていると思います……。この境遇では、あまり歌を残すことはできなかったでしょう。最後の豊臣家(木下家)当主という名前もあるので、たしかに文化人としては伝説的な人物になる可能性もあるかもしれません。武将としての評価は、無いでしょうね……。

      メタですが、二人とも「人掃令」がいつ解かれるのかという私の好奇心に振り回されてしまったのです。災難だったとしか言いようがありません。でも、史実での勝俊さんや氏真さんの生き方は、個人的には面白くてけっこう好きだったりしますよ! だからどうだということもありませんが……。

      読んでいただいてありがとうございますmm

      返信
  2. 通りすがり

    大崎の治世下で大正義義隆公!
    梟雄秀吉は主家を乗っ取った大悪人、数で勝りながら義隆公に正義の鉄槌で粉砕され死亡。
    秀頼は天下の愚物。不祥の2代目の代名詞になって劉禅扱い。無駄な抵抗で京都を荒廃させ、名城大阪城を焼いたとか言われそう。

    ・・・たしかに時代が変わって再評価が進み、評価が真っ二つになる気がしますね。

    返信
    1. 木坂万倉 投稿作成者

      >通りすがりさん

      大正義! 恐らくそういうことになります……。でも大崎家の治世が永遠につづくことはないですから、その後は時代時代に合った評価が下されるのでしょうね。
      豊臣秀吉の評価は特に割れそうです。大崎家の評価は統治がうまくいくかによるかもしれません。きっとこれからが大変です。
      まぁ……後世の人たちは、とつぜん大崎家が台頭するという非常識の方にまず頭を悩ませることになるでしょう(^_^;)
      読んでいただいてありがとうございますmm

      返信

ムルアカ へ返信する コメントをキャンセル

コメントは反映されるまでに時間がかかります(スパム対策のため)。