主義が“創造”となった大崎家では、あらたに政策を実施することにしました。『兵農分離』の実施を考えましたが、効果をみるとあまり恩恵を受けられなさそうなので見送りとなりました。
※民忠の上昇は大きいが、領民兵が多い今の状況ではコストに見合ってないようにみえる。大崎家は所詮、えせ創造大名なのだ。小荷駄隊配備、関所撤廃、楽市楽座は実施。そのおかげか、米不足に悩むことはなくなった。
さて、1609年2月、高屋城を攻略した大崎軍は大坂城へと詰め寄ります。しかし、その城下には豊臣方の援軍が続々と集まっていました。大崎軍をひきいる大崎文は、その城下から豊臣軍を一掃するべく、攻城会戦を展開することにしました。
※大崎軍25705VS豊臣軍27031。大坂城下で会戦がしてみたかった。
大坂城下を守る豊臣軍は名将・大谷吉継が率いる精鋭です。
状況を確認すると、豊臣軍は3部隊。右方は大谷吉継、成瀬正成が陣取っていて、兵力は2万と固い守りになっています。一方、左方は原長頼が守っていますが、兵力は7000弱と多くありません。
※大坂城といっても、城下の会戦では特別攻めにくいということもないようだ。
対して大崎軍は左右に2部隊ずつ、計4部隊です。
ここは右の2部隊(相馬利胤、柏山明助)で大谷吉継らを引きつけているうちに、左の2部隊(大崎文、片倉小十郎)が原長頼を撃破、右方へとまわりこんで敵の背後を突きます。
まず原長頼の撃破をねらい、大崎文本隊と片倉小十郎が城門前へと進軍。大崎文が様子見で斉射を発動すると、原長頼は混乱しました。そこをすかさず小十郎が乱戦にもちこみます。統制を失った原部隊はあっけなく壊滅しました。
※「馬鹿な! 何が起こっているというのだ?」 原長頼は何が起こっているのかわからないうちに壊滅してしまった。
原長頼を撃破した2隊は狙いどおり、成瀬正成の背後にまわりこんで撃破することに成功します。
これで大谷吉継は孤立。包囲された吉継は最後の力を振り絞って大崎文に突っ込んできますが、崩し切れずに撤退しました。
※窮地に陥った吉継はしかたなく後進。大崎文と乱戦状態になったが、やがて壊滅した。
大崎家は会戦に勝ったものの、大坂城の耐久値は16000。残った大崎軍8000の兵では攻めきることができません。さらにはその後も豊臣家の援軍がつぎつぎと到着。結局、大崎軍は大坂城の攻略をあきらめ、いったん撤退することになりました。
※この石田三成は岸和田城への援軍だったが、大坂城はその進路上にあるので大坂攻略の兵も攻撃をうける。
一方、大坂城の戦いが激しくなるにつれて、豊臣領の守りは手薄になっていました。大崎家はこの隙をついて各方面の攻略を進めます。丹波では福知山城が降伏。畿内でも岸和田城を攻め落とし、徳川家康が和歌山城の攻略に成功します。
また、豊臣軍の傷が癒えないうちに、大崎家は奥州から第二次の大坂城攻略軍を出しました。その兵力、およそ3万。1609年7月にはその軍が二条御所あたりに到着し、大坂城を攻略する準備をすすめていました。
さらに伊達政宗軍団に大坂城の北にある有岡城の攻略を命じます。豊臣家が陸路で大坂城に救援をだすためには、まずこの有岡城を通らなければなりません。逆にここをおさえれば、大坂城への援軍を妨害することができます。
1609年8月ごろ、大崎軍は大坂城へと侵攻をはじめます。大坂城下を守る本願寺教如ら、豊臣家の軍勢は1万弱。大坂城を攻撃する大崎軍3万の兵に対して、兵力差を覆すことができずに壊滅。大崎軍による大坂城の包囲は完成しました。
一方、有岡城には柳生宗矩らが援軍に駆けつけます。柳生宗矩は有岡城の包囲を破ろうとこころみますが、池田の地で挟撃をうけて兵を喪失。宗矩は分が悪いと感じたのか、退却しました。
※実際には柳生宗矩は兵数が半分くらいになったころ、わりとあっさり退却した。
援軍がのぞめなくなった有岡城は、大崎家に降伏。城を明け渡しました。
これにより、大坂城への陸路による援軍経路はとだえます。大坂城を守っていた本願寺教如もこの状況をみて降伏。
1609年11月、とうとう大坂城は大崎家の手中に落ちたのでした。
※有岡落城に続くように大坂城も落城。豊臣家が権威を喪失してしまった瞬間でもある。
佐藤為信や小野寺義道が畿内で暴れまわってる様子を見ると、胸が熱くなります。
コメントありがとうございます!
私も胸が熱くなりました。妙なところが暑くなったことで、春バテしてしまったようで更新がとどこおっています(?)
読んでいただいてありがとうございますmm