1557年11月、本山家では三好領・洲本城へいよいよ出兵という段階になりました。そこで鈴木家へ洲本攻略の援軍を要請しようと様子を見たところ驚愕。なんと鈴木家は三好家と手を組んでいたのです。
※鈴木家は本山家の影響力の強さを警戒し敵視していた。それを放置していたのだから、当然といえば当然の対応である。
重要な場面で三好長慶に先手を打たれました。
1557年5月、四国は本山家によって統一された。
---その二ヶ月後、本山茂宗は嫡男、茂辰に家督を譲ることを決断。本山家中では一門衆に迎え入れた長宗我部元親及びその一族が勢力を強めつつあったため、自らの死後に混乱が起きないようにとの措置であった。
白地城では茂宗が城門を破壊しており、落城も時間の問題です。三好領・伊沢城から2300の援軍が来ましたが、兵を率いる伊沢城主・小笠原成助も既に本山家と内通していて、ただ傍観するだけです。
1556年11月、白地城は茂宗の激しい強行攻撃の末、落城しました。