【大崎文の野望】その7 雨垂れ、氷河を溶かす コメントをどうぞ 1612年7月、大崎文は島津義久を御相伴衆に任じます。義久はこれを受諾しました。 ※これで島津家を形の上で大崎幕府に取り込む。 続きを読む →
【大崎文の野望】その6 ある語り部の言 4件の返信 某は、しがない語り部です。本日は某がこの戦乱の現状を語らせていただきます。 大崎家と豊臣家の争いは、10年にも渡るものということです。今でこそ天下を2分していますが、以前はそうとう力の差があったようです。大崎家もごく小さな領地を持っていただけだったので、豊臣秀吉公も大崎家などとるに足らぬと油断していたのでしょう。 ※以前の大崎家 続きを読む →
【大崎文の野望】その5 大坂城攻略戦 主義が“創造”となった大崎家では、あらたに政策を実施することにしました。『兵農分離』の実施を考えましたが、効果をみるとあまり恩恵を受けられなさそうなので見送りとなりました。 ※民忠の上昇は大きいが、領民兵が多い今の状況ではコストに見合ってないようにみえる。大崎家は所詮、えせ創造大名なのだ。小荷駄隊配備、関所撤廃、楽市楽座は実施。そのおかげか、米不足に悩むことはなくなった。 続きを読む →
【大崎文の野望】その4 北条家に従属している勢力、佐野家はその家臣・茂呂久重が一人で切り盛りしていましたが、久重も死亡。佐野家の所属武将は死に絶えました。佐野家は佐野純玄なる人物が継ぐことになりました。 ※誰だこいつは。と思ったら、佐野純玄は架空武将である。架空武将なので列伝は空。所属武将が1の勢力で当主が死亡すると、その家紋の勢力名をもとに架空武将が出現するようだ。 続きを読む →