主義が“創造”となった大崎家では、あらたに政策を実施することにしました。『兵農分離』の実施を考えましたが、効果をみるとあまり恩恵を受けられなさそうなので見送りとなりました。
※民忠の上昇は大きいが、領民兵が多い今の状況ではコストに見合ってないようにみえる。大崎家は所詮、えせ創造大名なのだ。小荷駄隊配備、関所撤廃、楽市楽座は実施。そのおかげか、米不足に悩むことはなくなった。
1605年10月、大崎文のもとに、北条家当主・北条氏政から使者が到着します。要件は豊臣領・安濃津城攻撃の援軍要請でした。大崎家はこれを承諾し、ともに安濃津城を攻略することになりました。