ノリで反・島津連合を結成してしまった本山家は、島津・毛利・武田の3家と対立することとなりました。
※本山家は上洛を果たし国力が全国1位となったものの、将の能力や兵力では島津家に劣り、武器も乏しい。しかし、前当主、本山茂宗の戦闘能力は限界値まで達し、かなり強くなった。
1559年5月、播磨・丹波の攻略に成功した本山茂辰は、その一帯を統治する軍団を新たに編成。宿将・西園寺実充を軍団長に据え、三好討伐の任を与えました。
その西園寺軍団に、早速試練の時が訪れます。軍団長に任じられたまさにその月、軍団最東端の八上城に向けて三好家が進攻してきました。