【大崎義隆の野望】その14 食えぬ狸の早変化

豊臣領・杣山城の攻略に成功した大崎義隆ですが、豊臣家はその落城をうけてすぐに対応します。豊臣家・黒田官兵衛を中心としたおよそ54000の兵が杣山城奪還をめざして出陣しました。

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【大崎義隆の野望】その13 つゆときえにし

大崎家当主・大崎義隆は津軽為信に右大臣を名乗ることを勧められます。しかし、義隆はこれを断りました。

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※本城の所有数が多くなると発生する官位ミッション。本城を一定数攻略すると、「右大臣」を名乗れる。しかし「右大臣」を名乗ると、下位の官位を名乗ることが難しくなる。義隆が史実で名乗った官位「左衛門佐」が欲しかったのでここはひとまず辞退した。

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【大崎義隆の野望】その12 二度目の反徳川連合結成

1597年7月、北条氏政は大崎義隆の要請を受けて、新府城、蒲原城へと侵攻していました。氏政はいっとき新府城主・本多忠勝を追いつめながらも援軍に蹴散らされ、結局その攻略は成功しませんでした。

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※甲斐への侵攻はやはり失敗。仕事は早いが詰めが甘い。しかし家康は確かにつよい。

 

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【大崎義隆の野望】その11 連合解散

富山城を攻める南条隆信、四釜隆秀隊は、富山城下で徳川の援軍と衝突。これを会戦で破りました。その後、豊臣の援軍も死闘のすえに撃破します。

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※徳川家は越前・北庄城からも6500の援軍を出してきた。大崎軍は満身創痍である。

隆信、隆秀の部隊はほぼ壊滅状態となりながらも、国人衆の力を借りて富山城を包囲します。

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【大崎義隆の野望】その10 大崎の朝駆け

1596年10月。春日山落城のひと月前、大崎家は陸前、岩代など大崎領内で総勢およそ3万の部隊を編成。春日山城の援軍を目的として、越後へと向かっていました。

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この援軍は春日山城の落城を受けて、春日山城の奪還と徳川領の攻略をめざすことになりました。

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