富山城を攻める南条隆信、四釜隆秀隊は、富山城下で徳川の援軍と衝突。これを会戦で破りました。その後、豊臣の援軍も死闘のすえに撃破します。
※徳川家は越前・北庄城からも6500の援軍を出してきた。大崎軍は満身創痍である。
隆信、隆秀の部隊はほぼ壊滅状態となりながらも、国人衆の力を借りて富山城を包囲します。
1596年10月。春日山落城のひと月前、大崎家は陸前、岩代など大崎領内で総勢およそ3万の部隊を編成。春日山城の援軍を目的として、越後へと向かっていました。
この援軍は春日山城の落城を受けて、春日山城の奪還と徳川領の攻略をめざすことになりました。
1595年11月、大崎家・越後攻略軍が越後に到着。侵攻をはじめます。しかし、越後には徳川軍も集結しつつありました。
大崎家臣・四釜隆秀は虫川で大会戦を開いて勝利。ひとまず、徳川軍を一掃します。