三好家と浦上家が下津井で争っている最中。
三浦家臣・植木秀資が出奔します。秀資は赤松家をたよって播磨へと向かいました。
※「貞広様ともこれまで」植木秀資は元・三村家臣である。武将の忠誠値が低いと、こうして出奔することもあるのだ。
旧三村家臣団の中には、まだ三浦貞広に対して不満がある者も少なくないのです。
1571年9月ごろ。
三浦家は築城による勢力拡大を目指していましたが、浦上家と断絶したことによって計画は中断。その後も浦上家の動きを警戒し、なかなか築城できずにいました。
警戒はつづいていましたが、しばらく浦上家と交戦がなかったので築城をする余裕がでてきました。ただし、浦上領に囲まれた当初の築城予定地・両宮山(りょうぐうざん)を手にするのはまだまだ厳しいので、べつの候補地を探す必要がありました。
1569年9月。中国地方の情勢は、反毛利連合の結成により停滞していた。しかし畿内では織田信長が足利義昭を擁し、着々と上洛が近づく。歴史に新たな頁が刻まれようとしている。
そんな中、備中の三村家を下した三浦貞広は家中をまとめあげ、さらなる勢力拡大を目指していた――