伊予征服への野心を燃やす本山家は、わずか2ヶ月のうちに安芸家を滅亡に追い込むと、1554年2月、東土佐から伊予河野家領へ大除城へと進攻。同時に西伊予からも曽根城へ出兵しました。
大除城は河野領内でかき集められた兵に守られていたため、攻城会戦を展開。豊岡城主代理・福留親政の奮戦により、地の利と武装で優る大除守備隊を打ち破り一掃に成功しました。
伊予征服への野心を燃やす本山家は、わずか2ヶ月のうちに安芸家を滅亡に追い込むと、1554年2月、東土佐から伊予河野家領へ大除城へと進攻。同時に西伊予からも曽根城へ出兵しました。
大除城は河野領内でかき集められた兵に守られていたため、攻城会戦を展開。豊岡城主代理・福留親政の奮戦により、地の利と武装で優る大除守備隊を打ち破り一掃に成功しました。
窪川城を攻め落とした本山茂宗はその足で中村御所まで攻め入り、これを落城しました。
ところで、一条攻めの前に長宗我部国親が家臣団に加わりましたが、反抗的な態度を示していてまだ信用はできません。
かつての宿敵とは言えその能力は評価しているので、新たに得た窪川城を与えることで本山毛への忠誠を求めました。入城に際しては、その目付役として、吉松光久も同行させました。
岡豊城の状況を確認してみると、思ったより開発値は減少していませんでした。本山家に焼き討ちされて散々な目に遭ったはずなのに、民情も悪くありません。商業値が高いのが、長宗我部が金策に窮していたことを伺わせます。