1560年5月、本山家は毛利家攻略に失敗。一つの城を攻め落とすこともできずに兵の撤退を決めました。
※神辺城は本山家を追放された長宗我部親吉が守っていた。城門を破壊するところまで追い詰めながらも、毛利の援軍に阻まれて落としきれなかった。いまごろ、親吉は毛利家中で名将と讃えられていることだろう。
1559年5月、播磨・丹波の攻略に成功した本山茂辰は、その一帯を統治する軍団を新たに編成。宿将・西園寺実充を軍団長に据え、三好討伐の任を与えました。
その西園寺軍団に、早速試練の時が訪れます。軍団長に任じられたまさにその月、軍団最東端の八上城に向けて三好家が進攻してきました。
洲本城を攻略した茂辰は、伊予・西土佐に対毛利・島津を目的とした新たな軍団を新設。いざ争いとなれば激しい戦闘が予想されるため、軍団長には猛将・村上武吉が就任しました。