【上杉景虎の野望】その6 景虎反撃、景勝と対決・柏崎城の戦いにて

1581年10月、上杉家(景勝派)は武田領・上原城へと兵をすすめていましたが、武田家の諸将、真田昌幸らに撃退されました。景勝軍は攻略をあきらめ、自領へと撤退します。

伊達領・米沢城への侵攻もまた、援軍にかけつけた最上家当主・最上義光らの活躍によって撃退。けっきょく、景勝派の二方面攻略作戦は失敗に終わったのでした。

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※米沢城の救援を終えて山形城へ帰城する最上義光。つよい。

 

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【上杉景虎の野望】その5 景虎震撼、衝撃!Siege of Ōtate

上杉景虎は武功をあげて会津新宮城代になりましたが、寄騎もおらずモブ家臣とともに孤独な城代生活を送っていました。

ひとまず城下の開発に着手。城代になると、自領にくわえて城の開発ができるようになります。

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※“内政”や“普請”など城の開発ができるようになる。ただし出陣は大名の命令がないとできないなど権限は弱い。城主となれば出陣も自由。さらに“提案”することで大名に領地や寄騎(配下武将)を要求することができるようになるなど幅が広がるので、急いで昇進したいところ。

 

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【上杉景虎の野望】その4 景虎邁進、城代となる

足軽頭になった景虎は直江津の街をふらふらと視察。そこで老人に出会って直談判をうけます。老人の話を聞くと、直江津では鹿が作物を荒らしていて、その対策に困っているようです。

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※「穀物を食い荒らす鹿に悩まされております」もしかして:六文銭

 

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【上杉景虎の野望】その3 景虎昇進、帰雲落城により

飛騨・帰雲城を上杉軍およそ3500の軍勢がとりかこみます。その中には500の手勢をひきいる上杉景虎の姿がありました。

敵方の帰雲城主・内ヶ島氏理は籠城。防衛のかまえをみせていますが、その城兵はわずかに166。さらに姉小路家に属する飛騨の城はほとんどが落城し、援軍はありません。

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※堅城をわずか55の手勢で城門を守る内ヶ島氏理。これではどうすることもできないが、こうなると和議もない。おとなしく景虎の肥やしとなってもらうとしよう。

 

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【上杉景虎の野望】その2 景虎出陣、白川の戦い

某日、春の直江津。陽気に誘われるように景虎の養祖父、上杉憲政が来訪。

 

その目的は、物資の無心でした。

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※憲政は景虎にとって義父の義父。こんなに腰を低くされては、断ることはできない。

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※「ありがたいことです この御恩、いつかお返しいたします」素直に渡すことにしたが、完全に覇気を失った憲政の姿に哀しみ。

 

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