【三浦貞広の野望】その7 決着

日差し照りつける中、戦いが佳境に入ります。備中松山城での合戦は月をまたぎ、8月にさしかかっていました。

敵味方の部隊が次々と脱落する中、残された牧良長隊は東門で城門を守る庄高資と遭遇。攻撃をしかけます。

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※死ぬか生きるか

 

「備中松山城の戦い」の結果は、両軍1部隊、牧良長と庄高資に託されました。

 

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【三浦貞広の野望】その6 三浦軍駆ける

――1569年7月。

三浦家が三村領・備中松山城へと侵攻。三村軍と城下で衝突します。

この戦では三浦軍が挟撃をしかけ有利な状況です。しかし、三村軍を率いる上野隆徳は奮戦。苦戦を強いられます。

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※倍近い兵力差をもろともしない上野隆徳隊。三村家の被害216に対して、三浦家は329。挟撃をしかけた三浦軍のほうが被害が大きいというありさまとなった。

 

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【三浦貞広の野望】その5 山越え

1569年某月。

経験を積んだ三浦貞盛が成長をとげました。

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※経験を積み能力があがった武将は、こうして評定の時に自己アピールするのだ。「お家のため、老け込むわけにはいかない」55歳の貞盛は、政治能力が+1されて、政治59となった。

 

三浦家臣たちは投資や外交工作で経験を得て、少しずつ成長しています。

 

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【三浦貞広の野望】その3 夏に狼煙の臭い立つ

1568年3月。

毛利家による鳥取城の攻略に続くように、播磨では浦上家・宇喜多直家が攻めていた室津城が落城。浦上軍が赤松家との野戦にかかる負担をすべて受け持ちましたが、この戦には毛利家の介入がありました。

そのため室津城は、遅れて包囲に参加した毛利家の勢力下におかれることとなります。

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※浦上家の出兵は、毛利家の援軍という扱いだったらしい。宇喜多直家も不服そうに眉をひそめているが、そう見せてすべて手の内かもしれない。

 

さらには瀬戸内海にある能島村上家の能島城も落城寸前。北九州への侵攻は失敗したものの、毛利家は影響圏をさらに拡大します。

この年は全国的に戦が勃発しました。毛利家にかぎらず、各地の大名家は小勢力を吸収して、徐々に力をつけていきました。

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