タグ別アーカイブ: 支城勢力

【大崎義隆の野望】その16 反豊臣連合

北陸でひと騒動あった裏で、大崎家は政策『遠交近攻』を採用して九州の覇者・島津家に接近します。これは反豊臣連合の結成を意識したものでした。

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※島津家への使者には津軽為信が担当。互いにお国言葉が激しそうなので、意思疎通ができるのかはすこし心配である。

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【大崎義隆の野望】その15 北陸軍団長・四釜隆秀

1599年11月、反徳川連合の盟主・大崎義隆は勝利にうかれ、敵であった徳川家康に所領を与えるという戦後処理をしました。その裏では、北陸の軍団長・四釜隆秀が豊臣家の侵攻をうけて、難しい局面をむかえていました。

隆秀は大崎義隆の独立以来つき従ってきた重臣です。武勇に優れる彼は北陸の小さな軍団を任されていましたが、富山城から始まった北陸軍団は勢力を拡大、今では越前にまで領地を広げていました。

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※四釜隆秀はあまり目立っていないが、義隆の信頼も篤い。ところで今気づいたが、拠点13に対して武将10と大変かわいそうな状態だった。

 

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【大崎義隆の野望】その14 食えぬ狸の早変化

豊臣領・杣山城の攻略に成功した大崎義隆ですが、豊臣家はその落城をうけてすぐに対応します。豊臣家・黒田官兵衛を中心としたおよそ54000の兵が杣山城奪還をめざして出陣しました。

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【大崎義隆の野望】その13 つゆときえにし

大崎家当主・大崎義隆は津軽為信に右大臣を名乗ることを勧められます。しかし、義隆はこれを断りました。

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※本城の所有数が多くなると発生する官位ミッション。本城を一定数攻略すると、「右大臣」を名乗れる。しかし「右大臣」を名乗ると、下位の官位を名乗ることが難しくなる。義隆が史実で名乗った官位「左衛門佐」が欲しかったのでここはひとまず辞退した。

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【大崎義隆の野望】その12 二度目の反徳川連合結成

1597年7月、北条氏政は大崎義隆の要請を受けて、新府城、蒲原城へと侵攻していました。氏政はいっとき新府城主・本多忠勝を追いつめながらも援軍に蹴散らされ、結局その攻略は成功しませんでした。

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※甲斐への侵攻はやはり失敗。仕事は早いが詰めが甘い。しかし家康は確かにつよい。

 

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