1604年11月、大崎文が大崎家当主となりました。
1605年9月、大崎家は奥州から尾張への遠征軍をくりだした。しかし、その途上で大崎家当主・大崎義隆は病没。大崎家の家督は義隆の娘・大崎文がひき継ぐこととなった。この大胆な決断にも、家中には主だった動きはなかった。
新たに当主となった大崎文は自らがひきいる遠征軍を強行。尾張の支配権、さらにはその先にある上洛を目指して、豊臣家と闘う覚悟を新たにしたのだった。
1603年5月、後瀬山城の戦いが始まりました。大崎家は同時に長浜城にも侵攻。豊臣家の目もそちらに向いていて、ここを破れば豊臣軍の後続はおそらくありません。
この戦いは、大崎家の北陸統一をかけた重要な会戦です。