カテゴリー別アーカイブ: 九州征伐 大崎家 part2

【大崎義隆の野望】その9 栄光の先に

1596年6月、毛利家は豊臣家によって滅亡します。これで、西国で豊臣家に対抗できる勢力は九州を統一した島津家のみとなりました。

oosaki2_9_0
※この画像はその2ヶ月後、8月だが、豊臣家の兵力46万。当家の兵力は9万弱で、5倍ほどの開きがある。島津は兵力13万。四国の長宗我部家は虫の息。宇喜多家は豊臣家に従属している。

 

続きを読む

【大崎義隆の野望】その10 大崎の朝駆け

1596年10月。春日山落城のひと月前、大崎家は陸前、岩代など大崎領内で総勢およそ3万の部隊を編成。春日山城の援軍を目的として、越後へと向かっていました。

oosaki2_10_0

この援軍は春日山城の落城を受けて、春日山城の奪還と徳川領の攻略をめざすことになりました。

続きを読む

【大崎義隆の野望】その11 連合解散

富山城を攻める南条隆信、四釜隆秀隊は、富山城下で徳川の援軍と衝突。これを会戦で破りました。その後、豊臣の援軍も死闘のすえに撃破します。

oosaki2_11_1
※徳川家は越前・北庄城からも6500の援軍を出してきた。大崎軍は満身創痍である。

隆信、隆秀の部隊はほぼ壊滅状態となりながらも、国人衆の力を借りて富山城を包囲します。

続きを読む

【大崎義隆の野望】その12 二度目の反徳川連合結成

1597年7月、北条氏政は大崎義隆の要請を受けて、新府城、蒲原城へと侵攻していました。氏政はいっとき新府城主・本多忠勝を追いつめながらも援軍に蹴散らされ、結局その攻略は成功しませんでした。

oosaki2_12_0
※甲斐への侵攻はやはり失敗。仕事は早いが詰めが甘い。しかし家康は確かにつよい。

 

続きを読む

【大崎義隆の野望】その13 つゆときえにし

大崎家当主・大崎義隆は津軽為信に右大臣を名乗ることを勧められます。しかし、義隆はこれを断りました。

oosaki2_13_6
※本城の所有数が多くなると発生する官位ミッション。本城を一定数攻略すると、「右大臣」を名乗れる。しかし「右大臣」を名乗ると、下位の官位を名乗ることが難しくなる。義隆が史実で名乗った官位「左衛門佐」が欲しかったのでここはひとまず辞退した。

続きを読む